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患者さんから学んだこと

患者さんから学んだこと

小宮山です

癌の終末期でみている在宅の患者さんから、
「先生、私あとどれくらい生きられるんでしょうか」 
と、診察の最後にたずねられた。

不意にこうした質問があると、医療者は普通身を固くして、どう答えようか逡巡するものなのだけれど、そのたずねられ方というのが、何というかあまりに自然で、
たとえば入院して回復した患者さんから
「あとどれくらいで退院できるんでしょうか」
と聞かれるとか、在学中の大学生が
「あとどれくらい単位とれば卒業できますかね」
と大学の先生に聞くとか、
なんとも気負いなく、全く悲観的な感じのない、自然な聞き方だった。

そのため聞かれた自分もすごく自然体のままで
「うーん、○○さん予想外に長い経過だから、なんとも予想しづらいなぁ。今の調子なら日の単位や週の単位ってことはないと思うけど、年単位は無理だろうし、数ヶ月くらいかなぁ。夏を超えられるかなぁ、どうかなぁ、、、」
なんて、ふーっと、思ったままが口に出た。

○○さんは、それにどう思うといった感じでもなく、
「そうですか~」といった雰囲気だった。

それに次いで自分が
「でも○○さん、ほかの人と比べてもすごく良い時間を長くすごせているから、僕もあの世に行くなら○○さんみたいに行ってみたいよ~」 
なんて軽口も出て、家族と一緒にワッと笑った。

その後もお互いニコニコしたまま、「また来週」とさようならの挨拶をして家を出たのだけれども、一緒にいたスタッフと
「いや~、いいよね~」
とため息とともに、顔を見合わせた。

もちろん身体的苦痛がしっかりコントロールできていることで受け入れがより得られていることは確かなのだけれども、こうして、自分や家族の人生のなかに死がしっかりと存在していることを、悲観はもちろんあったとしても、入学や卒業や出産や結婚といった、あたりまえの生活のイベントとして受け入れられる、ってすごいことだし幸せなことだと思う。

そして自分たち、地域に住む生活者の生活を支える医療を行なう医療者の役割って、こうしたことをサポートすることだとつくづく思う。在宅の患者さんはもちろんだが、外来患者さんであったとしても同じだ。
そして、生活者を支えるためには、この患者さんのように、その方の生活や人生に、医師である自分が”観察者”ではなく”登場人物”の一人として関わる必要がある。

今の時代、電化製品がこわれたら、センターに送って修理してもらったり、買い換えるほうが安い、ということが普通だ。でも、自分が子供のころはまだ、近所の電気屋さんのがよく家に修理しにきてくれていた。何か電化製品でトラブルあると、母親はよく「近藤さん呼ばないと」なって言っていたものだ。うちでは「近藤さん」は「電気関係の問題」の代名詞だった。近藤さんは修理に来たついでにこちらが出したお茶とともに、雑談もよくしていて、それもひっくるめて電気修理だった。
「近藤さん」は明らかに、自分が小さいころの家族や、自分の人生の、登場人物のひとりだ。

自分がいま、医者として患者さんのお家や外来でやっていること・やりたいことは、この近藤さんと同じだ。生活の中に電化製品があり、それをみてくれる電気屋さんがいる。生活の中に、病気があり、死があり、それをみてくれるお医者さんがいる。自分にとって「電気関係の問題」の代名詞が「近藤さん」だったように、「医療関係の問題」の代名詞が「ありファミ」であり「小宮山センセー」でありたいと思う。

ーーーーーー

みんな、幸せな人生と幸せな生活を送りたいと思っている

電化製品を治すこと、病気を治すこと、結婚すること、生まれること、入学すること、、、、そして死ぬこと。それはすべて人生で幸せになるための手段や、通過点だ。手段や通過点が目的になったり、逆に回避する目的になってしまうことが、本当の意味での不幸を生み出してしまうのではないか、とも思う。

「みんな幸せな生活を求めている」と決めてしまうことが、本当に正しいことなのかはわからない。ただ少なくとも、自分がやっている仕事や日々の人間関係は、「みんなが幸せになる」ための「手段」であるということは忘れてはならなないし、手段が目的化して、かえって他人の幸せを奪ってはならないと思う。

近くにコンビニがあるので冷蔵庫を使わなくなってそのまま壊れた人がいたとする。そこで、いくら電気屋が修理が得意だからといって、壊れた冷蔵庫を修理するのは電気屋のエゴでしかない。「ありがとう」とは言われるだろうけど、使わない冷蔵庫が再び動くようになって、カラの冷蔵庫が冷えていたからって、本当にそれが本人にとって幸せだろうか? 幸せなのは「ありがとう」と言われて、修理代をもらった電気屋さんだけだ。

もしかしたら、カラの冷蔵庫であったとしても、お客さんは冷蔵庫が治ったこと嬉しいと感じるかもしれない。ただ想像してみてほしい。もしこの人が、近くのコンビニに行くのにも足腰が弱く大変だったとして、「お客さんの幸せ」をよく見ている電気屋さんが、冷蔵庫を修理するかわりに、電気自転車を提案したとしたら? そしてお客さんは電気自転車を使うことで、コンビニに買い物に行くことがとても楽になったとしたら? きっとカラの冷蔵庫を修理してもらうより、よほど幸せ、を実感できると思う。また電気屋さんにとっても、よりより仕事をした充実感が得られるだけでなく、冷蔵庫の修理代より電気自動車を支払って得られ得られる利益が多くなる、ということもあるかもしれない。

ときに、「幸せ」はお客さん自身だってわからないし、お客さんのことをよく分かっている電気屋さんのほうが、お客さんの本当の幸せをわかっていたり、それを現実化する手段をもっていたりもする。逆に、電気屋さんが「ほら、冷蔵庫治ったよ!よかったね!」強く言うことによって、電気屋さん自身も、お客さん自身も、カラの冷蔵庫の修理を「幸せ」と信じることだってある。

自分は医療者として、「誰も望まない冷蔵庫の修理」をしてはいないだろうか?

 

あたまの患者さんの話に戻る。

その場で会話をした私とスタッフが感じた
「いや~、いいよね~」
という感覚。

もしかしたら、”在宅で最期によい死を演出する”ことで自分たちの仕事が果たせた、と勝手に満足している自分のエゴである可能性だってある。もしかしたら自分は、カラの冷蔵庫を修理していたのかもしれない。表情は穏やかで笑顔もあったけれど、それは患者さんが医者に気遣いをしていたかもしれない。

また、医者にとっての幸せが必ずしも患者さんの幸せでないのは当然だけれど、患者さんにとっての「幸せ」も常に変化する。

だからこそ、患者さん、医者である自分、見守る家族、ともに働くスタッフ、地域でともに関わる他の事業所の仲間、などなど、みなの最大限の「幸せ」が何か、常によく見て、感じて、考えて、いろいろ試したり、よい意味で疑い、選択していくということはし続けないといけないのだろうと思う。

2016-07-30 15:14:00

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